5月11日(金)
会社にいった。いそがしいかもしれないなあと思いながら会社にいったらやっぱりいそがしかったからかなしかった。
去年の12月もやっぱりいそがしくて、毎日10時とか11時とか12時とかまでのこっていたけれど、それは納期が12月末で主担当もわたしだったからこれは終わらないと死んでしまうと思った。そのときに比べれば今回の仕事の納期は9月末だから気持ち的にはらくだと思う。それと同時に9月末の納期の仕事をなんでいまからこんなにのこってやらなくちゃいけないのとも思う。
朝8時くらいに起きて、9時に会社について、それから夜中の11時くらいまで仕事をして、ファミリーマートでごはんを買って家に帰ってそれを食べて、パソコンをつけてぼうっとしてシャワーを浴びて、カフカ「審判」をちょろちょろと読みながら1時とか2時に眠る。そういう生活をこの1週間していて、今週だけじゃなく、仕事がいそがしい時期はそういう生活をしていて、そういう時間はわたしにとってなにになるんだろうと思う。今回は要件からかかわっているからいそがしくなるのはあたりまえで、そういう時間が増えれば増えるほどシステムにはくわしくなっていくけれど、そうやってえられたくわしさが今後なにになるんだろう。そんなに会社を愛しているわけじゃないのに。この1週間がわたしの人生においてまったくなかったものになったとして、わたしの人生のゆたかさの総量はいくらかでもちがったものになるんだろうか。けれど、かりにわたしがこの1週間仕事をしないで本を読んだり映画や舞台を見たりしたりしたとして、それがわたしの人生のゆたかさの総量を増すことになるんだろうか。わたしにはよくわからない。たぶん、ここになにかまちがいがあるとしたら、人生について考えているということ、あるいは人生の価値をゆたかさではかろうとしていることだと思う。「書物そのものは不変であり、いっぽう、ひとびとの意見はそれにたいする絶望の表現でしかない」。カフカの「審判」において、大聖堂で僧は書物に書かれた物語の意味を解きあかそうとするKにこう告げている。それが本であっても、わたしの人生であっても、なにも変わらないと思う。たぶんわたしたちは決して最初から絶望してはいない。ものごとをなにかではかろうとする瞬間に絶望してしまう。そして、ほんとうのところではそれを知りながら、あいもかわらず絶望を追いもとめてばかりいるんだろう。
「自己表現などという身勝手なものが、人が期待するほど、そんなに
有り難いものなんかであるはずがない。しかも有り難いものでなけれ
ばならない義務だってない。様々な感情が人の顔の種類と同じく微妙
な差異で存在しているように、多様な表現が存在して然るべきなのだ。
それを許さず安易な感情移入や安手の感情移入とやらだけが小説だの
文学だの物語だのといって罷り通る世の中には、心から吐き気がする。
怒りを覚える。権力が常にわれわれの生活に関与し、おのれの都合の
いい理不尽な制度を捏造するのと、それはまったく同じだ。ハッピー
エンドなんてあり得ない。このような世界では絶対に。そのような真
実を暴く・・・・・とまではいかないが、幻想に取り憑かれ安定した
と思いこまされている人々の人生に横槍を入れ、出来る限りイラつか
せる。僕にもし、作家として信じるに足る誠実な仕事があるのならそ
れをやるしかないと思っている。」
"若者たちの孤独のありかたと、入れ物としての写真というのを主題に撮り、「一年」というくくりの元にまとめて作品とした。 賑やかで薄い、無自覚な孤独の中で生きているデジタルネイティブ世代の若者達に、深いポジティブな孤独を感じとって欲しい、という思いと、この写真の集まりを通じて、自分の気持ちのありようを考えて欲しいと考えた。
「デジタルネイティブ」と呼ばれる若者たちは、インターネットを通じ対面でないコミュニケーションを使いこなし、常にたくさんの誰かと繋っている環境に身を置いている。しかしながら、対面でないコミュニケーションは、対面のそれに比べ非常に情報量が制限されているので、お互いの本心を、その底のほうから伝えあうには不十分である。すると、たくさんの誰かと繋っておきながら、心の底からの思いを誰にも話せない、薄くて広い、賑やかな孤独を味わうことになる。
この賑やかさのせいで、普段の生活では孤独感を忘れがちであるが、自分はそれを良いと思っていない。深く強い孤独が人間生活であるということをちゃんと認識すべきであるのに、賑やかさで紛らわしながらの浅く弱い孤独に無自覚であるというのは、直感的ではあるが、大変に残念なことに感じるからだ。
そういう思いの中で、自分は、見た人が「孤独」を認識できるようにという思いを持って、写真を撮った。
ふと視野を広げたときに眼に写りこむ人がいる。誰もいない場に人の幻影を見るというのは、例えばそれが懐しさに起因するのであれば、記憶の中にある風景でしか幻影は現われないはずである。しかし実際には、全くの新しい場所でも、ないしは全くの新しい場所のほうが、幻影は現れる。新しい場所のほうが、自分に関係しているものが少ないからだと分析し、自分はこの幻影は孤独の射影だと考えた。
作品は鑑賞者の思いの入れ物であるべきだと考えている。この作品を見て、鑑賞者が自分の作品を作ろうと思えるようなものを作りたかった。写真の中にいる幻影は写真には写りこんでいない。それは鑑賞者の中にあるからだ。鑑賞者にはそれぞれの幻影を写真にあてはめ、自分の追いかけている幻影の存在に気付いて欲しいと考えた (すなわち、自分の孤独に自覚的になること。孤独は作品制作の第一歩であると考えるからだ)。自分としては、人を撮っているつもりであるから、人が変数になっているポートレイトのつもりで撮影している。
写真は絵画とは違い、必ず、実在する風景をそのまま写しこんでいるから、鑑賞者は見た幻影を単にファンタジーとして片付けにくいだろうと考えた。これらが写真である意味は、鑑賞者に自分が感じた思いに対しいい訳をできるだけ与えないためである。
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